櫻〜紅華抄〜(前編)

春はあけぼの・・・。
少女はぼんやりと山の端を眺めていた。御簾の奥からでは見えない景色。縁側まで出てはまた美萩に怒られるかしら。ぼんやりと考えていると件の女性の声が聞こえてきて思わず首を竦める。
「姫様!またそんな端近までお寄りあそばされて!」
「だって、とても山が綺麗なのよ?もうすぐ桜の季節ですもの。いいお天気だし、美萩もここで見物してはどう?」
のんびりと言う姫君に美萩は頭を抱えた。この時代、姫君というのは御簾の奥で扇子に口元を隠し、黙って微笑んで座っているものなのである。こんなところまで出てくるとなると少々お転婆どころの話ではない。
どうして櫻様はこうなんだろう?せっかく頭の中将様も通ってこられるようになっているというのに。
「このようなところにおられてはせっかくの雪肌が焼けてしまわれます。さ、早く中へ。」
「あん・・。」
美萩に手をとられるとかなり残念そうにしながら奥へと歩んでいく。
「せっかくお美しいのですから、ご結婚あそばされるまでどうぞそのままでおいでになってくださいまし。」
「美萩のほうがよほど美人だわ?」
少々不満げな少女の文句は聞こえない振りをして美萩は少女の十二単を整えた。そう、少女は実に美しかった。黒檀の如き黒髪は艶やかに長く伸び、肌は白雪のように白く、唇はその名のごとく桜色。当代一の美少女と言っても過言ではないその風情、いかにも通う殿方が多そうだが、実はそうではなかった。それは彼女の境遇に深く関係してくる。
「さ、この扇子でお顔を隠して。他の殿方にそのお顔を見られたらどうなさるおつもりですの?御髪も綺麗に梳いて・・中将様がいついらしてもいいように、綺麗に整えておかなければ嫌われますわよ?」
「そ・・それは困るわ?」
少女の頬がほんのりと赤みを帯びる。さながら恋をする少女。まさに、櫻は幸せな恋の真っ只中にあった。

時は平安。
華やかなりし貴族社会のその裏側で、跳梁跋扈する魑魅魍魎ども。それらを下し、時に人の命運すら左右する才能を持った人種。人はそれを、陰陽師と呼んだ。安部清明、芦屋道満などに代表される彼らは、重宝されるその一方で人々に畏怖の念を齎しめた。その恐るべき力ゆえに・・・。
「お母様、いってまいります。」
子の刻をとうに過ぎた頃。緋縅の小袖に身を通し、薄絹を頭から被って櫻は庭に堂々と立つ桜の大木に手を触れた。蕾も膨らみかけたそれは後数日もすれば満開の花をつけるだろう。そうなればここは、桜色に染まる。
「お母様・・・。」
目を細めて大木を見上げる。樹齢がいかほどかは知らない。だがこれほどの大木、かなりの齢を重ねているであろうことは確かであった。
櫻はこの桜の下で生まれた。産気づいた母親は、屋敷に戻る暇なくここで櫻を産み落とし、産後の肥立ちの悪さにその後すぐに亡くなった。それ以来、古参の乳母とまだその当時幼かった美萩に育てられてここまで来たのだ。とても美しい人だと聞いている。自分に生き写しだと・・。櫻には、この大木に母の魂が宿るような気がして仕方がなかった。だから、こうして仕事の前には語りかけることにしている。
桜のごつごつとした、それでいて温かみのある木肌を軽く撫でて、櫻は闇が支配する都へと足を踏み出した。悲しい御霊を鎮めるために・・・。

「鷹宗様!?」
巳の刻。自室に戻った櫻は部屋の中にある人影にぱっと顔を綻ばせた。薄絹を外し、部屋に足を踏み入れると、凛々しい顔立ちの男が座している。
「やあ、櫻、お帰り。」
微笑む男の前に座りながら慌てて少し乱れた髪を整える。その頬は軽く桜色に染まり、嬉しくも恥ずかしげに瞳を伏せて。
「鷹宗様・・・おいでになるのでしたら前もって文をいただけましたらもっと早くに戻って参りましたのに・・。」
「急に櫻の顔が見たくなってね。いても立ってもいられなくなってしまった。美萩からは留守だと聞いていたから待っていたんだよ。」
頭の中将、藤原鷹宗。将来を嘱望される若き文官である。今、最も勢いのある出世頭と言っても過言ではない。そして、櫻に通う唯一の殿方でもあった。
「嬉しゅうございます。最近お忙しそうでしたもの。なかなか文もいただけずに寂しゅうございました。」
少し拗ね気味に言う少女に腕を伸ばしてふわりと抱きしめると、その顔がまるで寒椿の如く真っ赤に染まる。
「すまない。帝の側にどうしてもいなければならなかったものだから・・。」
「鷹宗様がおいでになるとわかっていたらもっといい香を焚き染めておいたのに・・。」
恥ずかしげに呟く少女の額に軽く口付けると、鷹宗はくすりと笑った。
「大丈夫。櫻はいつもいい香りがするよ。」
案の定、少女の顔が真っ赤に染まる。この初々しげな少女にはこういった初々しい表情がよく似合う。
陰陽師もただの女だ・・。
櫻のこの顔を見るにつけ、鷹宗は何故世の男がこうも陰陽師というだけでこの美少女を避けるのかがわからなかった。おかげで実に通いやすかったが・・・。美女だの美少女だのという噂があるだけでその屋敷にはなかなか通いにくくなる。ライバルが多いと文もなかなか目に止まらなくなるからだ。鷹宗の顔とポストでいけば、通って欲しい女の方が多いのが道理であったが、鷹宗は普通のご令嬢には興味がなかった。
「明日は昼にここをおとなうことになっている。私の方変えでね。それと父の物忌みの件で。」
「ああ・・もうそのような時期ですのね?わかりました。ご用意してお待ちしてますわ。」
ふわりと微笑んで頷く。この様を見るだけではとても物の怪と渡り合うとは思えない。櫻の名は裏では実に有名らしいが・・・姫君の陰陽師など隠しておきたいのが本音だろう。男の拝み屋ほど表には出てこないが、その力は清明にも匹敵すると言う。それに関しては鷹宗は実に半信半疑であった。
それよりも・・・。
「それより櫻・・・。」
じっと少女の瞳を見詰めて、鷹宗の顔が桜に近づいていく。桜色に頬を染めた少女がそっと瞳を閉じると、二つの唇はごくごく自然に重なった。
「ん・・。」
僅かに声を漏らして櫻が震える。何も奪わず、何も与えることのない重ねるだけの口付け。だが啄ばむように重ねていくと徐々にその唇が薄く開いていく。そう・・いつもここまではいいのだ・・・。
「あ・・ん・・。」
鷹宗の舌がそっと櫻の唇の隙間にもぐりこむと少女の瞳がきつく閉じられた。鷹宗の狩衣の袖をきつく握り締め、唇の中を蹂躙されるのを身を硬くして耐えている。鷹宗の手が櫻の帯に伸びる・・。
「だ・・だめ・・・。」
櫻の白い指が鷹宗の手を抑え、少女は恥ずかしげに顔を背けた。
「櫻・・愛しているんだ・・。」
「鷹宗様・・婚儀までは・・・。」
口付けようとする鷹宗の胸を押してその動きを止めようとする。そう、これだけ通っているにもかかわらず、鷹宗はまだ一度も櫻を抱いたことがなかった。だからこそなおも通うのだが・・。
「櫻・・私ではだめかい・・?」
「いいえ・・いいえ・・そうではないのです・・。」
泣きそうな顔で己を見る少女に軽く嗜虐心に火がつく。こうなったら力ずくで・・・。
「櫻・・もう我慢できないんだよ・・!」
「鷹宗様!?」
慌しく櫻の華奢な体を押し倒し、帯を緩める。
「いや・・だめ・・。」
抵抗する細腕をものともせずに袂を押し開くと白い肌に浮き出る鎖骨が露になった。吸い寄せられるように口付けるとなんとも知れずいい香りが鼻を擽る。
「櫻・・。」
「だめ・・お願い・・やめて下さい・・。」
懇願する声もこうなっては男を燃え上がらせるだけである。更に押し開くと思ったよりも豊かな乳房が僅かながら覗く。
・・・もう少し・・・!
「・・・!?」
更に袂を開こうとした鷹宗の体が時を止めたように動かなくなる。見れば、泣きそうな顔で櫻が何かを呟いていた。どれだけ渾身の力を込めようと体は動きそうにない。
・・これは・・いったい・・・?
背筋を寒いものが走り抜けるのを感じて鷹宗はぶるっと身を震わせた。
・・・これが・・・・陰陽師の力か・・・?
「櫻・・・わ・・わかった・・私が悪かった・・・。」
やっとのことで声を絞り出すとようやく体の自由が戻る。思い通りに動くようになった己の手で胸を押さえながら鷹宗は気まずい笑みを浮べた。
「今日は・・退散するかな。どうも日が悪い。」
「あの・・鷹宗様・・・。ごめんなさい・・。」
胸元を掻き合わせるようにしながら泣きそうな顔で謝罪する櫻を引き攣った笑みで抑えると鷹宗は立ち上がった。
「いや、悪いのは私のほうだ。また出直そう。明日のこともあるしな。じゃあ、櫻、また。」
「鷹宗様・・・。」
櫻の頬に軽く口付けると、そのまま鷹宗は慌てたように障子の向こうに消えていった。
「鷹宗様・・。」
一人残された櫻は、ただ、はらはらと涙を流すだけであった。
櫻が鷹時を拒んだのにも理由はある。師にかつて「処女性こそが力の源である。」と言われたことが原因だった。まだ都が己の力を必要としている限りは陰陽師であり続けたい。
「鷹宗様・・ごめんなさい・・・。お慕いしております・・。」
障子の向こうに隠れて櫻のすすり泣くを聞くにつけ、美萩はどうにもやりきれないものを感じるのであった。
・・普通の姫君だったらどれほどよかったろうに・・・。
このときばかりは、この美しい女主人が哀れで仕方がないのであった。

  天地も 海の底ひも 我が如く 背に恋ゆるらむ 人はさもあらじ
(天にも地にもあの大海原の奥底にだって私ほど愛しいあなたを思っている人は絶対にいません。)
10日も経つのに通ってきてはくれない恋人を思い、出した文の返事はなんともあやふやだった。
  白妙の 袖に触れにし 君の香の 我が身染めしも なほ惜しむらむ
(袖に触れた君の香りが私の体中に染み付いている。それがどうにも惜しくて仕方ないんだ。)
「・・鷹宗様・・。」
やっぱり怒らせてしまったのかしら・・。
縁側で小さなため息をついてかなり膨らんだ櫻の蕾を眺めやる。この文ですら着たのは一昨日の話で。昨日今日当たりはここにいても美萩が怒ることはなかった。食欲もない。かといって眠れもせず、櫻はここ数日陰陽師としての仕事もしてはいなかった。仕事は溜まる一方でそれが収入の大部分を占めているため父は何かとうるさいが、こればかりは仕方ない。やる気にならないのだ。
「ふう・・・。」
再び溜息をついて視線を落とす。
「・・・・それ・・本当かしら?」
「だとしたら姫様かわいそうよね?」
ふと、声が聞こえてくる。庭にいる女官たちが雑談をしているらしかった。当の櫻が端近まで下りてきていることを知らないせいか、その声には遠慮がない。
・・私が・・かわいそう・・・?
思わず耳を澄ましてその内容を聞き取ろうとする。
「中将様もいつから桔梗の君とお付き合いなさっていたのかしら?」
・・・桔梗の君・・・?
名前だけは聞いたことがある。美しく、歌も上手に詠む才媛だとか。
お付き合い・・・?いったい・・どういうこと・・?
「さあ?いつからかしらね?でも、もうご結婚なさると言う以上は二股は間違いなかったんじゃなくて?」
ご・・・結婚・・・?鷹宗様が・・・?嘘・・・。
「姫様もずっとお体をお許しにならなかったようだし・・・そうなると殿方というのはやはり・・。」
話が少々下世話な方向に流れるのも聞こえなかった。櫻の頭の中で、今聞いたばかりの単語が限りなく渦巻いている。
鷹宗様が・・結婚・・・。桔梗の君と・・・・。鷹宗様が・・・・。
「あなた達、なんて話をこんなところでしてるの!仕事に戻りなさい!」
「美萩さん・・すみませーん・・。」
ワタシガカラダヲユルサナカッタカラ・・?ダカラ・・ホカノヒトト・・?
叱り付けた美萩が砂利を踏んでこちらにやってくるのも聞こえはしなかった。ただ呆然と受け入れられざる事実が頭の中で半鐘のように鳴り響いているだけであった。
タカムネサマハ・・・ホカノオンナトケッコンスルノ・・・・?
「ひ・・・姫様!?」
縁側で呆然としている櫻とその表情から全てを悟り、美萩が慌てて櫻の元へと駆け寄る。呆然と天を睨むその顔はもはや蒼白になり、白目を剥かんばかりにがくがくと体が震えていた。
「櫻様!どうかしっかり!櫻様!?」
ワタシガカラダヲユルサナカッタカラ・・・・・ホカノオンナノモノニ・・・・タカムネサマ・・・
「いやあああっ!櫻様!?」
悲鳴をあげる美萩の腕の中、櫻の華奢な体はがっくりと崩れ落ちた。

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