櫻〜黄焔抄〜(後編)

 遠くで低くサイレンが唸っていた。
夜中だからといってアメリカ軍は手加減をしてくれるわけじゃない。もはや聞きなれてしまった空襲警報に葵はため息をついた。
「・・・まったく・・・。百人殺せば英雄・・か。よく言ったものだ。」
昔の戦争など一度の攻撃で一人しか殺せなかったというのに。最近ではどうも一度に殺せる人数を競ってるようにしか思えん。
『鬼畜米英』
そんなことを言いながら戦地に赴く日本軍も同じようなことをしているはずなのだ。
殺しあうことこそが戦争なのだから。どんな大義名分を掲げても、それに変わりはない。
されていることしか言わない情報操作。うんざりだった。こんな戦争は早く終わってしまえばいいと思う。
葵は防空壕にも入らずに自室から暗い夜空を眺めていた。恐らく外では避難の準備にてんやわんやのはずだ。文化遺産を大事にするアメリカ人が古い建築物の多いこの町を焼き払うとは思えなかったがやはり爆撃の脅威というものは人を混乱に容易に陥れてしまうものらしい。
現に、人払いの結界があるこの部屋を除いてこの屋敷も今は無人だった。
時刻にして0時。
空襲とは甚だ人迷惑なものである。
「だが・・。」
自分の少し細くなった腕を見て葵は苦笑いを浮かべた。もともとそう太いほうじゃない。筋肉質なその腕はただでさえない脂肪をさらに薄くし、筋肉と筋を浮き上がらせていた。
「俺も空襲の只中にいるのと大して変わらないな・・。」
死が近いとはそういうことだ。このまま何もしなければ確実に死んでしまう。
できうる限りの手を講じても櫻から逃れることはかなわなかった。どれだけ強い結界も、強い呪符も彼女にはまるきり歯が立たない。
葵は決して陰陽師としての腕は悪いほうではない。だが、それ以前に櫻が強すぎるのだ。
もう幾夜体を重ねたことだろう。
心の熾き火は強くなる一方。それが、葵をこの地から逃がすことを許さなかった。
「俺も・・・馬鹿だな・・・。」
死を齎すとわかっている愛情に囚われるとは・・・。
「その通り・・ですね・・・。」
風が流れた。
気配は唐突に現れ、そこにはないはずの桜の香りがかすかに香った。
「・・・今日も・・来たのか・・・。」
振り返ればそこには女。白い綿のブラウスにやはり綿のベージュのスカート。
時代を姿に反映させているというのだろうか。良家の子女がいかにも今の時代にしていそうないでたちで櫻は部屋の入り口に佇んでいた。
着物だったのは最初の日だけで、あとは思えば洋服であった。それも、交わるほどにらしくなっていく。
「はい・・。今日は、人払いだけなのですね・・?」
「・・何をしても無駄だからな・・。」
問いながらも歩み寄る女を素直に胸に抱きとめる。
無駄。
だから何もしないのではない。無駄だとわかっていることを繰り返すよりも何か他を模索するほうが遥かに建設的だからだ。
少なからず、己としては諦めているつもりは毛頭なかった。
「葵さん・・・。」
シュル・・パサ・・・
まっすぐに葵を見つめながら櫻が服を畳に落としていく。
何度も繰り返されたこの光景を、葵はまんじりともせずにじっと見詰めていた。
当たり前のように湧き上がる愛情。
逃しはしないとでも言うように首に巻きつけられる腕。
すでにこの世のものではないくせにしっとりと生ぬるく寄せられる白い肌。
どれもが、葵をその場に縫いとめていた。櫻の白く細い指が葵の服にかかる。だが、今日もその手を押し留めて葵は自ら服を脱ぎ捨てた。
わかっている。
だが、それと櫻を抱くことはすでに別のことになっていた。
死んだっていいなどとは毛頭思わない。だが、この燃え上がる心の熾き火が櫻の魔性によるものだけでないと信じたい。
悪あがきかもしれない。
すでに囚われていることを認めたくなくてそう思い込もうとしているだけかもしれなかった。
それでも。
この気持ちは俺のものだ。
口付けた唇の荒々しさがそう言っていた。すべて奪おうとするかのように内部を弄る舌に櫻の体が一瞬強張る。うっすらと瞼が開き、濡れた瞳がわずかに覗くとどこか切なげにその双眉が眉間にわずかな波を作った。
だが、それはほんの一瞬のことで。
すぐにその瞳を狂気の赤が染め上げていく。
自らの口の中を舐り、犯す舌に舌を絡めて啜り上げながらその華奢な指は葵の幾分薄くなってしまった胸板を辿りすでに屹立した男根にからみつく。ゆっくりと、しかし確実な動きでかり首から根元までを扱きあげると葵の鼻から少し荒い息がすぐに洩れ始めた。
「・・櫻・・・。」
「葵さん・・・。」
うっとりと己の名前を呼ぶその瞳は燃えるような赤。すでに人のものではないその双眸を見つめながら葵は櫻の細い腰を抱きしめ、豊かな胸を揉みしだいた。唇から頬、耳朶に口付けを送り、激しく首筋を吸いながら畳の上にその匂い立つ体を押し倒した。
「ぁあ・・。」
知らず洩れたため息さえも誘うようで。
研ぎ澄まされた感覚はその吐息から香る仄かな芳香にさえも感じて射精を促しそうになっていた。それを堪えて敢えて香りの源にも近い首筋に顔を潜り込ませ、その浮き出た首筋のラインをそっと舌でなぞる。
「ああん・・・。」
洩れる喘ぎ声さえも震えていた。
これも手管ではないと思いたい。
そんなことを考える自分を愚かだと思いながらも葵の手は止まることはなかった。豊かな双乳を揉み上げ、その先端に口付ける。すぐに固く反応したそのぷるんとした乳首を口に含むと舌でちろちろと弄りながら時折きつく吸い上げては声を上げさせる。
いや、櫻はなにをしても、どう抱いても声を絶やすことはなかった。
だからこそ溺れたのかも知れない。
唇の洗礼を受けなかったもう片方の乳首は指先でつまんではくりくりと捏ねる。その動きにさえも身を捩らせ、腰を震わせて悦んだ。
櫻の香りは徐々に強くなる。それはまるで煙に燻された大麻のように葵の鼻腔から四肢の隅々にまで浸透し、感覚を蕩けさせ、または鋭敏にし、そして脳の中を痺れさせていった。
恋情と言う名の麻薬。
それは、まさにそういう名が相応しかった。
「ああ・・・葵さん・・愛しています・・。」
嘘だとは思いたくはなかった。
だからかもしれない。
秘裂に潜り込ませた指が熱い泥濘を捉えた。心が狂喜する。
「櫻・・。もうここはこんなだ・・。」
「いやあ・・言わないで・・・。」
まるで薄氷のような、そんな脆い睦言。
ぐちゅ・・くちゅ・・・
指先に触れた肉芽を遠慮会釈なしに摘み上げ、引っ張るように揉むとそこを支点に腰がつりあがっていく。
「あぁ・・ああ・・・。んああ・・・。」
白い肌がうっすらと赤みを帯び、しっとりと潤いを増していく。肉芽をつまみ、捏ねながら時折柔らかい肉襞の中に指を突き入れるとグチュグチュとたまらないほど淫靡な水音を奏でながらその裸体が踊った。襞の中を指で弄りながら肉芽の皮を向きあげる。そうしながら胸から腹、そして薄い茂みにまで舌を這わせると期待を含んだため息がそっと洩れた。その溜息は葵の中の凶暴な、獣の部分を確かに刺激した。
「何かして欲しいことがありそうだな・・?」
「そんな・・して欲しいことだなんて・・・。」
恥ずかしげに身を捩らせながらも櫻の瞳はじっと葵を見つめている。ぐちゃぐちゃと襞を責め立てられるのに任せて少しずつ開いていく足がそのうちなる願望を物語っていた。快楽に浮いた腰のために櫻の秘すべき秘裂は葵の顔のすぐ前で。
「ないのならやめてしまうが・・?」
意地悪げに問うとその顔を激しく振って黒髪を畳に散らせる。
「あ・・いや・・。やめないで・・・。」
恥じよりも勝るのは欲望。
そう。欲望が勝るからこそ人を食い殺す鬼となってしまったのだ。
悲しい女を抱きしめて葵は耳元で囁いた。くちゃくちゃとぬるんだ秘裂をかき回す指はそのままに。
「じゃあ、どうして欲しいかちゃんと言うんだ。言わないのなら全部やめる。」
葵の言葉に女がぶるっと震えた。縋りつく細腕に力が篭る。
「ああ・・お願いします・・。やめないで・・・。言うから・・。」
ほんの少し体を離すと恥ずかしげに葵を見上げた瞳がすぐに伏せられる。心もち戸惑った唇がゆっくりと動いた。
「ああ・・。私の・・・私の・・あそこを・・・ああ・・・・舐めてください・・。ああ・・恥ずかしい・・・。」
その途端に櫻の香りが強くなり、葵はくらりと眩暈を覚えた。羞恥に震えるその姿は久しく忘れかけていた射精感を再びよみがえらせるに十分足るものだった。
「櫻・・・。」
じゅる・・ちゅ・・ちゅく・・・
「ああ・・・ああん・・っ・ああ・・葵さん・・・あああぁ・・・。」
頭の片隅から徐々に痺れが浸透していく。
そんなことを感じながら葵は桜の太腿を大きく開かせると露わになった濡れそぼった秘裂に唇をつけ、激しく音を立てて舌全体で舐めあげた。それから尖らせた舌先で剥き上げられた肉の芽をつつき、周囲をなぞるように舐めてから唇に含んで吸い上げる。吸い上げながら唇で扱くようにすると櫻の唇からすすり泣きのような喘ぎが洩れ、戦慄くように腰が震えた。
「あ・・葵さん・・・・ああ・・・ん・・はう・・・。」
ぐにゅ・・・ぐちゅ・・・
耳に心地よく櫻の喘ぎ声を受け止めながら肉芽を攻める舌は休めることなく襞に指を押し込めていく。中を擦るように弄りながらクリトリスを吸い上げるとさらさらと櫻が首を振り、髪が畳に擦れる音が聞こえた。
「ああんん・・っ・・ああっ・・やぁ・・・っ。」
指を包み込む襞がきつく締め上げ、中が痙攣するように震えているのがよくわかる。絶頂が近い。そう感じ取った葵は膣に突き入れた指をぐちゃぐちゃと激しく動かしながら執拗に舌でクリトリスを嬲り、吸い上げては擦りあげていく。固くなって肥大したその肉の芽は葵の刺激に確実に快楽を倍増させ、櫻の白い裸身を若魚のように跳ね上がらせていた。
「ああ・・葵さん・・だめ・・だめです・・・。」
ぐちゅ・・・ぐちゃっ
櫻の懇願に合わせるように指を中でぐるっと擦るように動かし、クリトリスを一際強く吸い上げてやる。そこで終点が訪れた。
「あ・・・・あああんっ!」
がくがくがくと激しく櫻の体が震え、大きくそのしなやかな背中がしなったかと思うと激しく首を振る。白く濁った愛液が葵の顎と指を濡らし、指が動かなくなるほどに激しく締め付けられた。
「櫻・・・・。」
「あ・・は・・・・ふ・・・。」
胸を激しく上下させ、答えることさえままならない櫻の両足を抱え上げると葵はそのまま一気に貫いた。
「あああっ!はぁ・・・ん・・・。」
「く・・・。」
一瞬かなりの眩暈が葵を襲う。それをぐっと堪えて頭を振ると、締め付ける襞を押しのけるようにして猛然と腰を動かし始めた。
グチャ・・グチュウ・・・ズ・・・ズチュ・・・パンッ・・・グチャッ・・・
一息に動かした男根にとてつもない射精感とそれに伴う脱力感が襲ってくる。
まるで命を削られているようだ・・・。
ぼんやりとそんなことを頭の隅で考えながら、葵はびしょびしょに漏れ出した愛液を撒き散らすようにして腰を打ちつけた。
「あ・・ああん・・・ふあ・・・・あふ・・・ああぁ・・あお・・さん・・あああ・・・いい・・・ああん・・・っ。」
すでに櫻の唇からは言葉にもならない音の羅列が律動に合わせて溢れ出していた。
これが本当に幽鬼だろうか。それとも幽鬼だからこそなのだろうか。
情欲に囚われ、汗に塗れ、男を放さんと縋りつき、抱きしめる。
『鬼とは人が生みしもの』
行過ぎた情念の具現が櫻を1000年もこの地に縛り付けているのだとしたら、まさしく目の前で悶えるこの女は鬼だった。
哀れで、悲しい鬼。
求めても得られるはずのない愛情を求めて時を彷徨い続ける鬼。
熾き火は一気に炎となって燃え上がる。
何かが葵の胸を締め付けた。同時に射精感が限界を迎える。
「・・・櫻・・・っ。」
「ああ・・・ん・・・あああうっ!!」
波は同時に訪れた。
男の動きが止まり、女の体が震える。
「は・・・ぁ・・・・。」
零れだすような溜息とともに、再び緩やかに時が流れ始めた。

「櫻・・・・。」
着物をかけただけでまだ素裸の櫻を抱きしめて葵は言葉にならない己の感情と戦っていた。
言えばすべて終わってしまう気がした。
それは、自らの終わりを意味する。
そんな気がした。
そして・・・それがまた櫻を孤独の淵に陥れることも・・・。
「櫻・・・。」
紅い瞳が葵を見上げた。まだ熱と潤みを残したその瞳は、男を欲しがっている。その視線に囚われると脳から脊髄に熱い何かが走り、そのまま前立腺へと下っていくのだ。
「櫻・・・。」
たまらず唇を塞いだ。柔らかい唇を堪能するように吸いながら細い体を抱きしめる。
永遠などないとわかっていても期待してしまう甘さ。
そして、触れる肌の体温の低さ。
全てがアンバランスだというのに、まるで黄金率に支えられてでもいるかのようにしっくりと心に馴染むのが不思議だった。
もう・・だめだ・・。
「櫻・・・あい・・・。」

ドォオオオオオオオオオオンッ!!

屋敷を揺るがす地鳴りに反射的に身を起こす。
「・・・焼夷弾かっ!?」
つんと油が燃える匂いが鼻をついた。広範囲を燃やすことを目的とするナパーム弾の攻撃が屋敷を掠めてしまったらしい。
「・・・空襲警報も当たることがあるとはな・・しかもこんなときに・・。」
焼夷弾の火は燃え広がるのが早い。屋敷のはずれのほうに落ちたようだったが、古い屋敷だ。恐らく燃え広がるのも早いはずだった。
「櫻っ!行くぞっ!」
相手が幽鬼なのも忘れて手を掴むと葵はその場から駆け出した。すでに炎は燃え広がり始めているらしく屋敷のあちらこちらが赤く染まっていた。
「・・・くそっ!」
こういうときは広い屋敷は仇となる。燃え尽きる前に外に出られるか・・。よしんば出たとしても下手な場所に出てはまたぞろ砲撃の的にされてしまう。
「ここから近いのは中庭か・・。行こうっ!」
手を引いて走り出す葵に櫻は黙って頷くと滑るように後をついていく。その顔に浮かぶのはわずかな驚きと喜び。
徐々に立ち込めてくる煙に口元を袖で多い、身を低くしながら駆け抜ける。火の勢いは思っていた以上に強かったようで、中庭へと抜ける通路も部屋もすでに火に包まれていた。
「くそ・・っ。」
急いで踵を返そうとするも割と近いところで建物が崩れる音が聞こえた。
ドサッ・・ガシャ・・・ゴォオオオオ・・・・・
炎が近いのか熱気が煙を伴って押し寄せてくる。煙を吸ってしまった喉が痛み出し、視界が利かない中、活路を見出そうと葵は手近の襖を蹴り倒した。その襖の先を抜ければ中庭はすぐのはずだった。
ゴオオオオッ
「うあっ!?」
押し寄せる炎に思わず身を仰け反らせながら後じさる。20畳ほどのその部屋は炎に包まれ、押し寄せる炎が畳を舐めようかとしていた。
走れば・・行けるか・・。
多少のやけどは負うかもしれない。だが・・・。<
「櫻、少し我慢しろよ!」
決断は一瞬だった。葵は櫻の体を横抱きに抱え上げると炎の先を睨み、一気に駆け出したのである。
広い部屋を葵は疾走した。捕まえようとする炎の手を避け、煙を吸うまいと息を止めて。広い部屋を呪わしく思ったそのとき。
ドサッ・・ガシャア・・・ッ
「うわあっ!!」
炎を上げながら天井の梁が葵の上に落下してきたのだ。
・・万事休すか・・・!!??
一瞬目を閉じてしまったその身に、だが灼熱の梁は圧し掛かってくることはなかった。
「・・・?」
恐る恐る目を開けた葵の目に映ったものは・・。
「櫻・・・・。」
梁を押し留めるように突き出された細い腕。梁はかがみこんだ葵の頭上20センチほどのところで押し留まっていた。その梁には呪符が貼り付き、今にも燃え尽きそうに炎に巻かれて喘いでいる。
「早く。逃げて。」
「馬鹿を言え!置いて行けるか!!」
櫻の結界の力か、その空間だけ煙も入ってはこない。葵は思い切り叫んだ。
「いっしょに逃げるんだ!さあ!」
「私が今動けば術が解けてしまいます。早く。」
ゆっくりと首を振る櫻に唇を噛み締める。その葵の様子に櫻はわずかに微笑んだ。
「忘れましたか?私は人間ではないのですよ?」
「だからって置いて行けるわけがない!」
そう、ここで置いていけるぐらいならはじめからこの屋敷に留まってなどいないのだ。
「櫻・・愛・・っ。」
言葉は途中で唇にふさがれた。ゆっくりと唇を話した櫻にさらに言い募ろうとするが自由が利かない。ふと見れば、胸元に呪符が貼ってあった。
二つの大きな力を行使しながら青ざめた顔で櫻はふわりと柔らかく微笑んだ。その紅い瞳が葵の目の前で徐々に黒く染まっていく。
「嬉しかった・・・。本当に、愛してもらえたから・・・。少し、安らげるような気がします。私は大丈夫。だから、逃げて・・・。」
言葉も出せないままに葵の体は自らの意に反して梁の下から抜け出した。そのまま、ギクシャクと炎を避けて中庭に向かって歩いていく。
違う・・!俺は・・俺は櫻と・・!!
「愛しています・・。葵さん・・。あなたは・・私に『囚われて』などいなかった・・・。」
そうだ・・!囚われてなんかいない・・・。愛している・・・っ!!
目の前で音もなくまだ燃え残っていた障子が開いた。目の前には中庭。冷たい夜の光景に赤い炎の影が照らし出されていた。
「・・・・愛して『いました』・・・。木を・・・どこか人が集まりそうな場所に植え替えてください・・。多くの人に愛でられたら・・・もしかしたら・・鬼もその内・・・。」
裸足の足が冷たい土に触れた。そのまま数歩踏み出して・・・。
ドカ・・ッ・・ガラガラ・・・・ッ
「櫻ぁーーーーーーーーーっ!!!!!」
即座に振り返った葵が見たものは炎に巻かれながら微笑む女の笑顔。晴れやかな笑みを浮かべながら瞳からは涙が伝っていた。
思わず屋敷に駆け戻ろうとする葵の目の前を轟音を立てて屋根が崩れ落ちる。部屋も櫻の姿もすべては隠れ、ただ、燃え盛る炎だけが全てを飲み込み、無へと帰していった。
「・・・・んで・・・なんで・・。」
不思議と涙は出ない。ぎゅっと拳を握り締め、ただ葵は炎を見つめていた。
あらゆる感情が炎のように燃え盛り、胸を焦がしていく。怒り、憤り、慟哭、悲しみ、・・・・寂しさ。
「なぜなんだ・・・っ!!」
ダンッ
地面を打ちつけた拳が震えていた。
ダンッダンッ
打ち付けて。打ち付けて、拳が血塗れになっても飽き足らない。
「く・・そ・・・・・。」
・・・・はら・・・・
紅の拳に、薄桃色の欠片が一片張り付いた。
「・・・これ・・は・・・。」
はら・・・・はら・・・・・
一枚・・また、一枚・・・・。
拳を、肩を、頭を、腕を・・・そして、地面を・・。
「・・・・櫻・・・・。」<
振り返れば、そこには夜の闇の中、轟然と燃える炎に照らされながら満開の古い桜があっという間に花弁を散らす姿があった。
まるで雪のように降り注ぎ、地面を覆い尽くす花弁はまるで葵の頬をなで、抱擁しているようでもあった。
「櫻・・・。」
よろよろと歩みより、桜の大木を抱きしめた。それはまるで、あの少女を思わせるような清冽で、儚げな香りで葵を包み込む。
「愛している・・・。」
警報はいつのまにか鳴り止んでいた。
葵は、しばらく固まったように櫻の木を抱きしめつづけていた。

戦後、半世紀が流れた。
爽やかな朝の日差しの中、公園ではいつもどおりの朝が始まろうとしていた。
花見の名所でもあるこの公園は池のほとりはジョギングコースにもなっており、なかなか人気の場所だった。
今日も数人がジャージに身を包み、軽いジョギングに汗を流している。その先の広場ではラジオ体操や縄跳びをしている姿もあった。
いつもどおりの風景。いつもどおりの朝。
野鳥の鳴き声に耳を傾けながら朝の散歩を楽しんでいた若い夫婦が池のほとりのベンチに腰掛ける老人に微笑んだ。
「おはようございます。今日も早いですね。」
「毎朝お掃除ご苦労様です。」
老人の足元にはビニール袋に入ったごみ。どうやら、彼は毎朝公園のごみ拾いを日課にしているらしかった。
「おはよう。」
「春とは言えまだ寒いですけど、大変じゃないですか?」
そう声をかける若妻に老人はにっこりと微笑んで首を振った。
「ここにはわしの恋人がいるからな。ちっとも辛いなんぞ思わんよ。」
「あら、若いのねー。羨ましい。」
「風邪を引かないようにしてくださいよ。ここの名物がいないと寂しい。」
からからうように言って去って行く夫婦に軽く頭を下げて見送ると老人はベンチ脇の桜の大木をそっと見上げた。
その瞳には、なんとも愛しげな光が宿っている。
「櫻。わしがお前さんのところにいけるのも近いのう・・。寂しがらせてすまなんだ。後もう少しじゃて・・。我慢してくれ・・。」
桜の枝が風もないのに震えた。それはまるで、頷きのようにも見えて。
老人の手が桜のごつごつとした、それでいてぬくもりのある木肌に触れる。
「のう・・櫻・・。もうすぐじゃ・・。わしが行けば・・・永遠になるよ・・・。」

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