未成年2

「……追いかけなくて、いいんですか?」

 そう問い掛ける美鈴に隆はすぐに答えることが出来なかった。梓が出て行ったドアをただ見つめ、混乱した頭で考える。
 梓が勘違いをしたことは明白だった。
 あまりにありがちで笑えない。肩についたごみを取ってもらっただけだ、なんて言って信じてもらえるかどうかすら怪しいほど初歩的な言い訳だと自分でも思う。

「……仕事、あるからね」

 それだけを答えると隆は自分の机に腰掛けた。午前中にやっておかなくてはならないことは結構あるのだ。
 まだ何も考えられはしないけど。

「……好きなんですね」
「え?」

 唐突な美鈴の言葉に心臓が跳ね上がる。
 ばれても仕方ないシチュエーションではあるが、惚け通すしか手はない。
 その隆をじっと見つめ、美鈴はふとため息をついた

「今の教え子さん、高校生くらいですか?」
「そう。西高校の2年。難しい年頃だよな」
「もしかして彼女ですか?」
「とんでもない。よく遊びにくる教え子だよ」

 どこかちぐはぐな会話だが今の隆にはどうしようもない。
 そんな隆を美鈴はちろりと見た。

「西嶋先生って、もしかしてすごく鈍い?」
「鈍いって……いや、否定は出来ないけど」
 隆の反応に美鈴は何か勘違いしたかもしれない。
 だが、今はそっちの方がありがたかった。
 余計な言い訳もしたくない。
 だが、美鈴の置き土産はもっと強烈なものだった。

「私も好きなんですけど」
「……はぁ?」

 目一杯間抜け面を晒した隆に美鈴はにっこりと微笑んだ。

「じゃあ、西嶋先生、当直、がんばってくださいね? 私はこれで失礼します」

 あっけに取られて言葉も出ない隆を置いて、美鈴は元気よく頭を下げるとにっこり微笑み、片足をわずかに引きずるようにしながら職員室を後にした。
 残されたのはいまだあっけに取られて二人の女性が出て行ったドアを眺める隆一人。

「……俺、今年、厄年だったか……?」


 泣くのは嫌だった。
 もう、頭が痛くて泣きたくなんかなかった。
 だから、夜中まで家に帰らなかった。
 母親に怒られたけど、そんなこと、頭に入らなかった。
 先生が目の前からいなくなっちゃうかもしれない。
 その事実が、これほど自分を打ちのめすとは。
 携帯にすら目もくれなかった。
 電源も入れてないその携帯は鳴ったかも知れない。鳴らなかったかも知れない。
 でも、どうでもよかった。
「先生……」

 ぼんやり呟いて、梓はただ、ベッドの上で膝を抱えて座っているだけだった。
 今更ながらいろんな思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。

「あんなに……いっぱいキス、したのに……」

 一杯抱き合ったのに。
 今思い出しても、きゅんと胸がうずいた。
 信じられない自分が悪いのか。
 それとも、信じさせてくれない隆が悪いのか。
 ぐるぐる考えるのも苦しくて、梓はそのまま布団をかぶってしまった。


「梓ちゃん? 生きてる?」

 月曜日の放課後。
 心配げな唯の声すら、今はどうにも鬱陶しい。

「うん……大丈夫」

 そう答えてはみる。
 しかしながら、そんな答えは唯どころか自分すら騙せてはいない。
 わかっている。
 席に座り込んだままの梓の頭上から唯のため息が降って来る。

「ちゃんと話し、した?」
「話すことなんか、ない」

 携帯は電源を切ったままだ。今日は学校にすら持ってきてはいない。
 声を聞きたくない。
 というより、かかってこないかもしれないものを期待するのがいやだった。
 告げられるかもしれない別れを聞くのがいやだった。
 昨日はあんなに勇ましい気持ちになれたのに、今は、怖かった。

「梓ちゃん……」
 かたくなな親友の様子にため息をつく。唯には、梓の中の葛藤が手に取るようにわかったのだ。
 だけど、このままじゃ全く解決しないこともまた間違いない。
 不意に、唯の手が梓の手を強く握った。
 そのままその手を強く引っ張り、梓を立ち上がらせる。
「唯ちゃん……?」

 突然のことに不思議そうに自分を見上げる梓に目もくれず、梓の分の鞄も掴むと唯はぐいぐいと教室の外に向けて歩き出した。

「唯ちゃん、ちょっと待って。いたっ……痛いってば。そんなに引っ張らなくてもちゃんと帰るから……」
「帰らないわよ?」
「へっ!?」

 思わず間の抜けた声を出す梓に構うことなく唯はずんずんと下足室まで引きずっていく。そこでやっと梓の手を離した。

「帰らないって……どうするの?」

 半ば答えに予測はつく。
 それでも、聞かずにはいられなかった。

「小学校に行くの」
「……行かない」

 二人にとっては簡単に予測のつく問答で。
 それでも、辿らずにはいられない。
 固まってしまった梓に構わず、唯は自分の靴を出し、梓の靴もついでに出す。ともかく、外に出してしまうつもりのようだった。

「ずっとここにいるわけにもいかないから。行こう?」
「……」
「それとも、今日は学校に泊まるの? そんなわけ、いかないでしょ?」

 唯が言うことはまったくの正論で。
 仕方なし、のろのろと梓は自分の靴に足を差し入れた。残された梓の上履きをてきぱきと唯が戻していく。
 全く、どうしてこういうときは手際がいいのだろう。
 重くなるため息を一息に吐き出して、梓は一歩、踏み出した。




 見慣れた校門をくぐり、見慣れた中庭を抜けて見慣れた職員駐車場の外れに立つと、つい先日買い換えたばかりの隆のスポーツクーペが目に入った。
 そこで、梓の足が止まった。
 もうちょっと落ち着くまで、クーペしか乗りたくないんだと言い張る隆に、『私としか乗らないからいいけどね』とにっこり返したのはついこの間のことだったように思う。
 そんな物思いにふける梓に唐突に唯が言った。
「梓ちゃん。あたし、帰るから」
「え、ええっ!?」
「だって、用があるのは梓ちゃんだし、あたしは弘毅君と約束があるから……」
「約束って、唯ちゃん……」
「じゃ、がんばってね」
 にっこり微笑んで手を振ると、唯は容赦なく梓を置いて立ち去ってしまった。
 梓は、といえば帰るに帰れず、その場に立ち尽くしていた。
 ここまで来て帰ると言うのも妙な話しだし、かといって隆に会うのは怖い。
 このままここにいればいずれ仕事が終わった隆が出てきて鉢合わせしてしまうのはわかっていた。
 どうしよう……。
「あのー……?」
「は、はいっ! ……あ……」
 落ち着かないままそわそわと考えている最中に声をかけられて梓は思わず飛び上がりかけた。
 見れば、この間隆といるところを見かけた女性で。
 引きつる顔はごまかしようがない。それでも、平静を装って梓はしゃんと背を伸ばした。
 やはり、少しでも背伸びをしたいのかもしれない。
 そんな梓を知ってか知らずか、女性は職員下足室から駐車場へと繋がる通路をちらりと見やった。
 もしかして隆がきたのかと慌ててそちらを見た梓だったが、その様子はない。そんな梓の様子に女性はやんわりと微笑んだ。
「もしかして、西嶋先生を待ってるの?」
「い、いえ……そんなことは……」
 もう、ばれてるんだろうな。
 そう思いながらでも律儀に隠してしまう自分が今は悲しかった。
 私の先生だから、取らないで。
 そう言えたらどんなにか楽だろう。
 つい視線が地面を見下ろした梓の上からその女性がくすりと笑った。
 その笑みが余裕の表れのようで妙に悔しくなる。
 だからつい、口から出てしまったのだ。
「何がおかしいの?」
 子供じみた八つ当たり。
 きっと睨みつけるように見上げたら、その女性は笑っていた。
 なんとも寂しげに。
「おかしいのは、あたし」
「え?」
 問い返した梓の言葉に答えることなく、女性……美鈴は職員通用口に向かって手を上げた。
「西嶋先生。お客様ですよ!」
「え? 先生!?」
 呼びかけに釣られて隆のほうを思わず見た梓が、再び美鈴の方を見た時にはすでに、その後姿が建物の影に消え去ろうとしていた。




「梓、正直な話をしよう」
 隆がそう切り出したのは、帰りの車の中だった。
 聞きたくない。少しそう思わなくはなかったけど、あの寂しげな笑みが、少しだけ梓の気持ちを柔らかくしていたのは確かなようで。
 黙ったままながら拒否もしない梓に、昨日のことについて簡単な説明をしたのだった。
 すなわち、『肩のごみを取ってもらっただけ』と。
 不思議に、今なら信じられるような気がした。
 だからこそ、聞いた。
「じゃあ、ホテル街にいたのは?」
「ホテル街?」
 一瞬呆気に取られた隆の顔が嘘じゃないと、今ならわかる。
「あー……あれかあ。彼女……小山さんが足をくじいてね。あの奥に病院があるの、梓も知ってるだろう? つれて行ったんだ」
「ふーん……」
 どこか焦ったその言い方が、今は、許せた。少し納得いかなさげに返事したのはやっぱりやきもきさせられたのが許せなかったから、ちょっとした意地悪。
 でも、意地悪はこれで最後。
「ねえ、先生?」
「小山さんに、好きって言われなかった……?」
「う……」
「やっぱり言われたんだ?」
「でも、ちゃんと断ったからな! ほんとだぞ!」
「なんて言って? 『彼女がいます』って?」
 そんなこと、言えるわけがない。
 それはわかってる。
 困り果てた隆の顔で、全て許せるなんてやはり意地悪なんだろうか?
 そう思いながらでも、すっきりとするのは確かで。
 だから、笑顔で言えた。
「先生、好きだよ♪」


 ぼんやりと薄暗い照明に浮かび上がる自分の裸身に、梓は思わずため息をついた。
「どうした?」
「早く大人になりたいの」
 呟いてしまったのは、自分の子供っぽさが言わせた駄々だとわかっているから。
「おいで」
 優しい手招き。
 ベッドに歩んで、温かい腕の中に身を委ねると、やっぱりほっとした。
 これは自分が子供なせいなのか、それとも……。
 考えていると、抱きしめる腕にぎゅっと力が篭った。
「先生?」
「梓が大人になるの、少し怖かったりしてな」
「……どうして?」
 素直な疑問。
 大人になったら、先生に釣り合えるのに。あんなに、悩まなくてもいいのに。
 子供だから、こんなにも辛い。
 隆の手が梓の頬を撫で、首筋を撫で、肩を撫でた。
 それだけで体がとてつもなく熱くなる。
「梓が大人になったらさ。俺、おじさん」
「……ぷ……」
「笑うなよ。結構重大な問題なんだぞ」
「……あんっ」
 拗ねた声と合わせて指が梓の乳首を摘んだ。そのまま、こりこりと愛撫する。
 苦笑いの隆の顔が近づいて、唇に柔らかい感触が落とされる。濡れた舌がそのまま粘膜を弄れば、なんとも知れず背中が震えた。
 先生も、やっぱり気にしてるんだ?
 聞かなくてもわかる。
 だから、つい笑みが唇に込み上げた。
「先生……?」
 濡れた吐息の下、呼んでみる。
「ん?」
 キスは緩めずに、舌を吸い上げるまま、返事は返ってきた。
 だから、ちゅうっとこちらも吸い上げて、唇を離してやる。
「おじさんでも好き。だから、私がおばさんになっても好きでいて?」
「大丈夫だよ。俺から見りゃ一生梓のほうが若い」
「そっか、それもそうね」
 蕩けそうな笑みを交わして、梓はそのまま瞳を閉じた。
 ただ、愛してもらうため。


 カラン……
 氷を揺らして、美鈴はため息を一つついた。
 グラスの中のウィスキーはすでに何杯目かわからない。
 なんだか、目の前がぼんやりするけど構うものか。
 もう、ベッドの中なんだもの。
 ああ、そうだ。
 実習が終わったらサークルのみんなと久しぶりに飲みに行こうかな……。
 どうせ、後何日もない……。
 ベッド脇にグラスを置いて、ぐるぐると回る天井に目を凝らす。
 明かりもぼんやりとしか灯してはいないから、ぼんやりとクロスの柄が回っているだけ。
「また……振られちゃったあ……」
 あの子が彼女だってこと、わかってた。
 言わなかったけど、先生があの子の事隠して断ったこともわかっていた。
「よっぽど……大事なんだなあ……」
 素直に、羨ましい。
 そんなに愛されたら、こんなに寂しいこともないのにね。
 どうして、あの子は先生が信じられなかったんだろう。
「高校生、だもんね……」
 ほんの何歳か下に負けた、なんて思いたくないけど。
「でも、本当に好きだったのにな……」
 忘れるのに、しばらくかかるかも……。
 あの、優しげな瞳を思い出して、美鈴は瞳を閉じた。

end

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