嘘みたいなI love you3

「父さん、帰ったんならただいまくらい言ってよ」
「いや……すまん」
 実際は小さな声で「ただいま」と言うには言ったのだが、沙希はどうやら気づかなかったらしい。
 俺は俺で、台所に電気がついているので沙希は台所にいるものと思い込んで直行し、沙希が昼に作ったらしい手が込んだおいしそうな料理に目が眩んでつまみ食いしていたところに沙希が降りてきた……とこういうわけになる。
 怪我がないかと俺の額や頭を見ていた沙希が、一度玄関に目をやり、続いて俺を見た。
「……?」
「父さん、晩御飯食べてくるんじゃなかったの?」
「食べてこなきゃいけなかったのか?」
 不思議に思って尋ねる俺に、沙希がなんとも複雑そうな顔をした。
「そういうわけじゃないけど……。大人のデートの定番として、晩御飯くらい食べてくるかなあと思っただけよ」
 そう言いながらも沙希は台所に入り、作った料理を温めなおしてくれる。俺に食べさせてくれるつもりなんだろう。
 俺はそんな沙希の後姿を見ながらテーブルに腰掛けた。
 ……希に似てきたなあ……。
 最近つくづくそう思う。
 だから好きなのかと言われりゃそんな馬鹿な話があるもんかと思う。
 希は希、沙希は沙希だ。
 がちゃがちゃとやっている沙希の後姿を見ながら、俺は正直に言った。
「早く沙希の顔が見たかったんだ」
「ぶっ……!! げほっ! ごほっ!! あつっ! あつっ」
 俺の台詞にスープの味見をしていた沙希が盛大に噴出して咽てしまった。
 ……やっぱり俺のせいか?
 涙目になってこちらを振り返り、沙希がいつものごとく頭から角を出す。
「父さん、変なこと言わないでよね! 唇、火傷しちゃったじゃない」
 見れば沙希の唇が確かに赤くなっている。スープが熱すぎたのだろうか。
「どれ……俺が舐めて治して……がふ☆ ふぉあーー!!!! あふっ! はふっ!」
 沙希の手を取った俺の口に熱々のにんじんが飛び込んできて、俺はそれからしばらく無口を余儀なくされ……・。

 我ながらおいしそうな食事を前にしながらも、父さんはまだ恨みがましい目であたしを見ていた。
「食べないの?」
「いひゃくへひゃへへはい」(訳:痛くて食べれない)
「それは困ったわねえ」
 そ知らぬ顔で言って自分はぱくつくあたしを、父さんがじとっと見る。
「ひゃへほへいはお」(訳:誰のせいだよ)
「何よ、ちょっと沸騰したおなべからにんじん突っ込んだだけじゃない。情けないわよ、男がそんなんで根に持っちゃ。
 熱々のポトフを食べながらさらりと言うあたしに、冷たい水をごくごくっと飲んで口の中を冷やした父さんがむすぅっとした顔でポトフのお皿をあたしの方に出す。
「何、あたしに食べろって? 無理よ。結構食べちゃったもん」
 湯気が上がったお皿を父さんのほうに押し返してあたしは食べ終わった自分のお皿を片付けた。そのあたしの背中に父さんが言った。
「食べさせれ」
「へ……?」
 最後はやっぱり痛いのか不明瞭な発音で言われた要求にあたしは思わず目を点にして振り返った。
「今……なんと……?」
「沙希が食べさせれくれらら食べる」
 『タ行』は舌が痛いのでなるべく使いたくないらしい。ラ行に摩り替わった日本語を瞬間的に頭で翻訳しながらあたしはあきれて父さんを見た。
「なぁに子供みたいなこと言ってるのよぉ。いい年した大人が変なこと言わないでっ」
 再び振り返って皿を洗い始めたあたしの背中に父さんがぼそりと呟いた。
「そうか……沙希は俺が餓死してもいいんだって言うんだな? 舌が痛くて一人じゃ食べれなくても沙希がふぅふぅしてくれたら食べられそうなのに……。沙希はそんなに俺が嫌いなんだ。今まで沙希を育てようと必死にがんばってきたこの俺を、沙希はそうやって見捨てるんだなぁ……。いや、娘は親を乗り越えてくって言うからこのくらいは仕方ないけどせめて死ぬ前に沙希の作ったポトフ……」
「だああああああっ!!! わーーーかったわよ! ふーふーすりゃいいんでしょ! ふーふーすりゃ!」
 まるでお経のような呟きに耐えられず、あたしは父さんのお皿を手に取った。
 あんたは子供かっ!!
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか。何も舐めて治せと言ってるわけじゃ……」
「あたりまえよぉおおおお!!!」
「うがああああっ!!!!」
 あ……また熱いまま突っ込んじゃった……。

「ね……ねえ、今日はどこに行ってきたの?」
 風呂上り、俺の機嫌を伺おうとしてか話し掛けてくる沙希に俺はわざとらしくそっぽを向いた。
 子供っぽいというなかれ。
 こっちは口をききたくてもきけない事情があるのだ。
「ねえ、父さん。あたしが悪かったから……」
 ソファに腰掛けて水を飲んでいる俺の隣に腰掛けて沙希が肩に触れた。その沙希の目の前でいきなり舌をべえと出してやる。
「いやぁぁぁああああああああっ!!!」
 そこまで引かなくても……。
 俺の舌は軽い火傷を負い、水ぶくれができていた。さっき熱いまま突っ込まれたポトフのおかげでその皮がべろんと剥けてとんでもない有様になっているのである。
「……ごめん……」
 さすがに悪いと思ったか、しゅんとした様子で沙希が謝った。
 こういうかわいい一面もちゃんとあるのだ。
「いいよ。一週間もしたら治る」
 さすがにそこから追い討ちをかけるような真似は俺にはできなくて、俺は気にするなと軽く微笑んで新聞を取った。それに安心したのか、沙希が俺に身を寄せてくる。
「ねえ、今日、どこに行ったの?」
「あー……映画見て昼飯くって買い物して終わり」
 新聞を読みながらあっさりと答えた俺に沙希は半ば呆れ顔を向ける。
「随分あっさりしてるのねえ……。晩御飯には誘われなかったの?」
「誘われたよ?」
「どうして行かなかったの? せっかくのデートじゃない」
 無邪気に尋ねる沙希に、俺は軽い溜息を押さえつけた。
 わかってるくせに。
 いや、そう思っちゃいけないんだとは思うが。沙希はわかってるはずだった。認めようとしないだけだ。そりゃ、無理強いはできないんだが。
「沙希に早く会いたかったからだよ。さっきも言ったけど。朝霞君と出かけたのは沙希の言うとおり、勉強のためだからさ」
 何食わぬ顔で新聞を読みながら俺はそう言った。
 沙希がどんな顔をしているか、見なくてもわかる。きっと、かなり困惑しているんだろう。
 そんな空気が伝わってきた。
「……父さんってさ。母さんの、旦那さんよね?」
 沙希の問いに俺はあっさり頷いた。
「そうだな。そして、沙希の父親だ」
 そう言ったことで沙希が息を抜く。それもわかっていた。
「父さんと初めて会った時のこと、覚えてる?」
 そう言いながら俺の肩にもたれてくる沙希に、俺は新聞を閉じた。
「おいおい、忘れようがないよ」
 苦笑いしながら見た俺を見上げ、沙希はやっぱり困ったような顔で言った。
「そうだよね」
 そんな沙希の頭を撫でて、俺は立ち上がった。風呂上りの湿った沙希の髪からシャンプーの香りが仄かに立ち上る。閉じた新聞で不自然にならない程度に前を隠して。
「明日、どっかいくか。それこそ映画とかさ。今日の学習の成果を見せてやるよ」
 明るい口調で言った俺に沙希は微笑んで頷いた。
「うん」
「……じゃ、年寄りは寝よ」
 込み上げる劣情をどうにか押さえ付け、俺は寝室へと向かった。
 父親と男の狭間。
 そんなところで俺は葛藤していた。
 でもそれは、ちょっとかっこつけた物言いかもしれない。
 俺は、沙希の父親であったことは過去に一度としてないのだから……。

 俺が希と出会ったのは行きつけの小さなスナックだった。
 小さな娘を一人抱えて生活しているらしい、と知ったのは初めて会って半年してのことだった。辛いだろうに、そんな素振りは全く見せない。気丈で、優しい。そんな女だった。だから、惚れた。結婚を決めたのはそれからすぐだった。そのとき俺は二十四歳と若く、上司や取引先からきていた見合いを全て蹴っての突然の結婚だった。だから、周囲はかなり戸惑ったし、反対もされたが、俺は構うことはなかった。
 俺の人生、誰に捧げようが俺の勝手だし、俺はそうすることが自分の人生だと信じていたから。
 ただ、たった一人、その結婚をどうしても認めてもらわなきゃいけない相手がいた。
 沙希だ。
 初めて会った時のことを、今でも鮮明に覚えている。まるで昨日のことのようにだ。
『あんたも、母さんを殴るの?』
 七歳の女の子が必死に希の前に立ちはだかり、目を吊り上げて俺にそう言ったのだ。
 俺は、幼い女の子にそんなことを言わせる彼女の血の繋がった父親にとてつもない怒りを覚えながら首を横に振った。
『じゃあ、あたしを殴るの?』
 俺は、怒りで目の前が紅くなるのを覚えた。
 気がついたら、泣いていた。
 それは自然なことだった。
 俺は、幼い沙希を腕の中に抱きしめていた。
『俺は、誰も殴らないよ。沙希ちゃんと、沙希ちゃんのお母さんを大事にしたいだけなんだ』
 お父さんになりたい。最初はそう言おうと思ってたんだ。
 だが、沙希が『父親』というものをどう思っているかということを思い知らされた俺はそんなこと、とても言えなくなった。
 沙希を抱きしめながら泣く俺に、彼女は目を吊り上げたままこう言ったのだ。
『こんなに泣くほど情けない男ならきっと殴らないよね。いいよ。おじさんを母さんの旦那さんにしてあげる』
 それから半年後、俺は希と結婚した。
 そして三年後、希は死に、沙希は俺を『父さん』と、そう呼ぶようになった。

 暗い部屋の中。あたしは、明かりもつけずに母さんの仏前にいた。
 部屋に上がって寝ようかとも思ったんだけど、なんとなく眠れずに。深まった秋の夜は少し肌寒い。だけどあたしは、パジャマ一枚の姿で黙って母さんの前にいた。
「母さん……」
 今でも思い出す。母さんが死んだときのこと。
 あんな悲しいことはなかった。だけど、あたしは泣かなかった。
 父さんが泣いてたから。そして何より……怖かったから。
 母さんがいないことの事実。
 優しい大人がいなくなることの恐怖。
『お父さんに、もう自由だからって……そう言ってあげて……』
 母さんはあたしにそう言い残した。幼いながらにあたしは、それが母さんの、『父さん開放宣言』だと理解していた。
 だめ……。あの人を自由にしたら、あたし、独りぼっちになっちゃう……。
 怖かった。
 あの人はあたしも母さんも殴らない、とても優しい大人だから。
 あたしは血の繋がらないあの人を、とても大好きだったから。
 母さんが死んだら、あたしとあの人との繋がりはなくなってしまう……!!
 あたしは、母さんのそのメッセージを父さんに伝えなかった。伝えようが伝えまいが、もしも父さんがそのつもりがなければ、あたしはとっくに一人ぼっちだったんだけど。
 だけど、あたしがそう言えば父さんはあたしを置いて一人でどこかに行ってしまう。幼いあたしはそう考えたのだ。
 そんなことがあるわけないのに。
 あの優しい人が、あたしだけを置いていくはずがないのに。
 だから……あたしは、母さんが死んだ事実を受け入れることができなかった。
 母さんが死んでしばらく、あたしはいないはずの母さんと話をしていた。
 それは正しくない。
 ただの思い込みだから。
 あたしの心は、母さんがいないという事実に耐えられず、架空の母さんを作っていた。それが、不思議なことに父さんがいるときだけは母さんは確かにいなかったのだ。
 どうしてだかはわからない。父さんと一緒にいられるように親戚たちに宣言したのもちゃんと父さんといるときは母さんの死がわかっていたからだ。
 そして、あたしを現実に引き戻したのは父さんだった。
『父さん』
 あたしは、便宜上、彼をそう呼んでいるに過ぎない。
 そんなこと、とうの昔にわかっている。
 それでも……。
「母さん……」
 親子でなければ他人でしかないあたしとあの人の絆。
 あたしは、紙切れで結びついた絆以外に、あの人と自分を結びつけるものの存在を信じられなかった。
 そして、信じてはいけなかった。
「母さん……」
 だってあの人は、あなたの旦那さんなんだもの……。

 翌朝、あたしは階下でごそごそとなにやら音がするので目が醒めた。
「ん……?」
 時計を見ると朝の九時。
 この時間にあたしや父さんが起きていることは奇跡に近い。
「一体何事……?」
 大あくびをしながら階下に降りてあたしは我が目を疑った。
「お、沙希、おはよう♪」
 るんるん気分でそこに立っていたのは父さんだった。それだけなら大して驚きもしない。なんと父さんはカジュアルでばっちり決めておしゃれしていた上に、お弁当を作っていたのである。
「ど……どうしたの……?」
「せっかく天気もいいしな。ドライブでも行こう。ドライブ」
 にっこり笑うと父さんは、お弁当のついでに作ったのか朝食の準備を始める。ご飯とお味噌汁と焼き魚。純和食のメニューだ。
「……おいし……」
「だろ♪」
 ていうか。これって反則だと思う。
 あたしはわなわな震えながら父さんに向かって叫んだ。
「こんな美味しいご飯が作れるなんて聞いてなああああああいっ!!!」
「そりゃそうだろ。希にも作ってやったことがないからな」
 あっさり言われてがっくりと肩を落としてしまう。
 なんだったんだろう。今までの七年間は……。
 なんだか悔しいのだ。これじゃあ、あたしがいなくても生活できてしまう。
 なんとなくどんよりとしたあたしを尻目に父さんはるんるんとお弁当をバッグに包んでいく。
「さ、沙希も早く着替えた着替えた♪ 今日はどっこにいっこうっかな♪」
 一人で盛り上がっている父さんを、あたしはなんとなくじと目で睨んでしまったのだった。
悔しいい!!

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